「まちなみカラープランニング」の手引き
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古墳時代~平安時代 古墳時代は、弥生時代に生まれた各地域の政治的なまとまりの統合が進んでいった時代です。支配者たちの大型の墓である「古墳」が造られたのがこの時代の特徴です。市内には、鷺沼城址公園周辺に鷺沼古墳という古墳時代後期(6世紀後半)の古墳群があります。このあたりを支配した豪族の墓であると考えられます。もう少し古い時代では、実籾霊園遺跡などで石製模造品の工房の跡が見つかっています。石製模造品とは、やわらかい石で勾玉などの形を小さく模造したもので、副葬・祭祀に使われるものです。 谷津貝塚では、7世紀末から10世紀前半にかけての拠点的な集落の跡が明らかになりました。二百数十年間に建てられた建物跡は、竪穴住居跡400軒以上、掘立柱建物跡200棟以上にのぼります。海に面する台地上に立地し、農耕と漁撈(ぎょろう)、さらに、ウシの飼育も行われていたようです。9世紀後半に集落は最盛期を迎え、鍛冶工房を伴う大型の掘立柱建物群が建ち並びます。墨書土器(墨でまじないなどの文字を書いた土器)を含む大量の土器が投棄される祭祀的な饗宴も行われていたようです。 中世(平安時代末~戦国時代) 鎌倉時代末に編纂されたと考えられている歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、治承4年(1180)10月に、源頼朝が「鷺沼御旅館」に滞在していたという記事があります。平治の乱で平氏に敗れ伊豆に流されていた源頼朝は、この年8月に挙兵しますが、石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れました。そして上総国の上総広常や下総国の千葉常胤など豪族の支援を受けて再挙をはかり、東京湾沿いに軍勢を進め、最終的には10月6日に鎌倉に入りました。この記事はその途中、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に入る直前のことです。この「鷺沼御旅館」のあった場所はわかっていませんが、習志野市の鷺沼付近であるという説があります。 市内ではまだ明確に中世の集落跡といえる遺跡は発見されていませんが、中世の遺跡としては、実籾3丁目遺跡では道路跡・地下式坑を伴う台地整形遺構が発見されました。また、実籾城跡では土塁や堀などが確認されており、砦として使われたのではないかと考えられます。したがって、実籾本郷に中世の集落があった可能性は高いと思われます。 江戸時代初期、市域では谷津・久々田・鷺沼・藤崎・実籾本郷に村があったと考えられますので、中世には、それらの村のもととなった集落がおそらくは形作られていったのではないかと推測されます。 近世(江戸時代) 戦国時代末期、後北条氏の支配下に入った千葉氏は、天正18年(1590)に後北条氏とともに滅亡。その後、徳川家康が関東を領有するようになり、慶長8年(1603)に江戸幕府が開府しました。 江戸時代の市域には、谷津村・久々田(くぐた)村・鷺沼村・藤崎村・実籾村の他、新田開発により成立した大久保新田などがありました。村々は大消費地江戸近郊の生産地として発展していきます。海岸沿いの房総往還(千葉街道)や本市を東西に横断する東金(御成)街道は、幕府の役人や住民の通行、物資輸送のために利用され、街道沿いには集落が成長していきました。海上輸送も盛んに行われ、江戸との間を多くの船が行き交いました。 また、現在の東習志野地区は幕府の直轄牧場である小金牧の一部、下野(しもの)牧に含まれていました。 近代(明治時代~終戦) 明治6年(1873)、今の習志野市・船橋市・八千代市にまたがる小金牧の一部が陸軍の演習場となり、明治天皇が「習志野原」と命名しました。明治22年には谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保新田の5村が合併して人口約4千5百人の津田沼村が誕生し、明治36年には津田沼町となります。 演習場に引き続き、明治29年に高津廠舎(日露戦争・第一次世界大戦中にはロシア兵・ドイツ兵の捕虜収容所が置かれる)、明治32年に大久保の騎兵旅団、同40年津田沼の鉄道大隊(のち鉄道第2連隊)が置かれるなど軍関連施設が建設されました。一方、明治28年の総武線津田沼駅、大正10年代の京成線各駅の開業など鉄道も発展します。こうした軍隊と鉄道の存在は、町並みの発展に大きな影響を与えました。 現代(戦後~) 第二次世界大戦後、旧軍施設は学校・住宅・工場などに変わりました。習志野演習場跡地も開拓され、現在の東習志野地区のもとが形作られました。 昭和29年(1954)8月1日、津田沼町と千葉市の一部が合併し、習志野市が発足しました。この後、習志野市は、高度経済成長下に急激な変貌を遂げます。昭和40年代の第1次埋立て、同50年代の第2次埋立てによって住宅地の造成が進み、首都圏のベッドタウンとして発展しました。昭和61年には米国アラバマ州タスカルーサ市と姉妹都市提携を行い、国際交流を深めています。 [作業3]メンバーの人選調査の参加者は多様なプロフィールをもつ人が望ましいところです。作業を考慮して、1グループあたり4〜6名がよいでしょう。[作業1]関連資料の収集HP等の閲覧、図書館・資料館を活用して情報を収集します。[作業2]プロフィールシートの作成関連資料より、対象地エリアのプロフィールをまとめます。三山の地名の起こりは、三山はみやまと読み「深山」、「御山」、「宮山」と江戸時代の記録に表わされており、また三山は二宮神社を中心として発達した部落であると言われています。 三山・田喜野井地区の文化・文化財としては、平成16年に「千葉県指定無形民俗文化財」に指定され、丑年及び未年におこなわれる二宮神社の大祭である「下総三山の七年祭り」があり、また弘仁年間に創立された「二宮神社社殿」・「齊藤その女等奉納句額」・「二宮神社の神楽」などがあります。 三山氏が先祖代々神官を務めた。地名同様「三山」の名は古くは「御山」と見え、当社に起因する[4]。 天正19年(1591年)には徳川家康から朱印地10石を与えられたほか[1]、江戸幕府将軍からの寄進は幾度にも及んだ。安政5年(1858年)刊の『成田参詣記』では「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」の図の挿絵とともに紹介されている。 明治に入ると、近代社格制度において郷社に列した。また、明治43年に若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀した。古来より「注連下」(氏子の区域)は21・3ヶ村(現在の船橋市東部・北部、習志野市、八千代市、千葉市西部)にまたがる広大な地域に達し、現在でも例祭などで、その影響力を見ることができる。 陸軍鉄道連隊は、工兵から派生した鉄道兵の集団であり、それは近代戦での兵員物資の輸送などインフラ面を担うものであった。北清事変での鉄道大隊の活躍を期に、近代戦での鉄道利用の有効性について、明治政府は確認し、日露戦役後は、鉄道大隊が鉄道連隊へ昇格した。すでに日露戦争中には、鉄道大隊は朝鮮、旧満州での鉄道建設にあたった。その後、より専門性を高めるために、演習線を敷設することになり、大きく分けて、①千葉から習志野(津田沼)、②津田沼から松戸の演習線が敷設されることになった。 実際に、千葉から津田沼の演習線は1911年(明治44年)に開通、同時期に作草部から四街道まで演習線が延びた。作草部~四街道の下志津支線は下志津原の砲兵の演習場などを背景に、軍の街になろうとしていた四街道を象徴するような演習線といえる。さらに、1932年(昭和7年)には、鉄道第二連隊によって、津田沼から松戸まで演習線が敷かれ、それは戦後の新京成電鉄の路線の原型になっている。 演習線の計画段階からの歴史をたどれば、既に1906年(明治39年)には習志野に鉄道隊派遣隊が置かれて、津田沼と高津廠舎を結ぶ軍用線が敷設されることが企図された。日露戦争後の1907年(明治40年)10月にはもとの鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、中野から転営がなされ、その翌1908年(明治41年)には第二大隊、連隊本部、第一大隊が千葉町椿森に転じ、材料廠は千葉町穴川に設けられ、千葉に連隊本部、第一大隊、第ニ大隊、材料廠、津田沼に第三大隊という配置というように部隊が拡大・整備されると、多くの将兵を教育する必要に迫られ、前記の演習線が敷かれて、各種訓練が行われたわけである。 鉄道兵たちは、平時においても鉄道敷設、架橋など種々の演習にはげみ、駐屯部隊の物資輸送だけでなく、民間鉄道の路線敷設や運転をも行って、技術力の維持に努めた。 社伝によれば、弘仁年間(810年-824年)、嵯峨天皇の勅命により創建されたという[3]。 平安時代中期の『延喜式』神名帳には「下総国千葉郡 寒川神社」の記載があるが、当社はその論社とされている。また、下総国の二宮として朝廷からの崇敬をうけたという(ただし旭市の玉崎神社も二宮を称する)。二宮神社と呼ばれ始めた時期は不明であるが、乾元2年(1303年)銘の梵鐘(成田市祥鳳院蔵)に「総州二宮社壇」とあることから鎌倉時代にはすでにこの呼称があったことがわかる。 また、治承4年(1180年)に藤原師経が左遷された際、藤原時平が相殿に合祀されたという[3]。藤原時平は菅原道真の政敵であるため、天神の氏子は当社に参拝しなかったと伝わる[1]。 三山氏が先祖代々神官を務めた。地名同様「三山」の名は古くは「御山」と見え、当社に起因する[4]。 天正19年(1591年)には徳川家康から朱印地10石を与えられたほか[1]、江戸幕府将軍からの寄進は幾度にも及んだ。安政5年(1858年)刊の『成田参詣記』では「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」の図の挿絵とともに紹介されている。 明治に入ると、近代社格制度において郷社に列した。また、明治43年に若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀した。古来より「注連下」(氏子の区域)は21・3ヶ村(現在の船橋市東部・北部、習志野市、八千代市、千葉市西部)にまたがる広大な地域に達し、現在でも例祭などで、その影響力を見ることができる。 社 殿 現在の社殿は安永年間(1772-81)に再建されたものである。本殿・拝殿とも屋根は銅板葺であるが、本殿は大正11年(1922年)10月に、拝殿は大正14年(1925年)に茅葺屋根から葺き替えられた。この社殿の平面形式は江戸時代に流行した権現造だが、拝殿から幣殿にいたる床面の高さは同じになるようになっている。また、軒の組物及び腰組も当時の正規の宮大工の手法によって意匠と造作がなされている。昭和53年(1978年)10月25日に船橋市の有形文化財に指定された。 Phase 1プロフィールシート1 プロフィールシート2 習志野市 大久保 船橋市 三山 習志野市誉田八幡神社 誉⽥⼋幡神社の由緒 誉⽥⼋幡神社は、⼤久保新⽥の開祖市⾓頼⺟が延宝年間(1673-80)に、河内国古市郡誉⽥村(現⼤阪府⽻曳野市)の誉⽥⼋幡宮を勧請して船橋市夏⾒に創建、その後習志野市本⼤久保に遷座したといいます。 「習志野市史」による誉⽥⼋幡神社の由緒 ⼋幡神社 ⼤久保新⽥の産⼟神で、祭神は誉⽥別命(応神天皇の尊称)。延宝年間(⼀六七三〜⼋〇)に⼤久保新⽥の開祖市⾓頼⺟が、河内国古市郡誉⽥村(現⼤阪府⽻曳野市)より勧請して創建されたといわれる。この市⾓頼⺟は信仰⼼が厚かったようで、正徳五年(⼀七⼀五)には⼆宮神社の神輿御神鏡を奉納し、村内には⾃分の持仏堂として薬師堂(現薬師寺)を建⽴している。江⼾時代末期、祭神の名前をとって誉⽥⼋幡神社とも称するようになっている。神主は市⾓⽒の世襲で、⽂政⼀〇年(⼀⼋⼆七)と明治⼆年の神道裁許状が伝わっている。明治初期の本殿の規模は間⼝六尺・奥⾏六尺。(「習志野市史」より) 千葉県神社名鑑による誉⽥⼋幡神社の由緒 延宝年間、豊⾂⽅の武将であり、藤原秀郷の⾂市⾓頼⺟が、河内国古市郡誉⽥村に鎮座する誉⽥⼋幡宮の分霊を、船橋市夏⾒に守護神として奉斎されたが、農耕に適さずとして、藤崎部落の⽥久保源左衛⾨の教えにより、習志野市本⼤久保の地に奉遷。その後さらに現在地に遷座し、多くの崇敬を得ている。安政⼆年に本殿・拝殿を改築、昭和七年に神輿殿、同⼆四年に神楽殿を新築。末社七社。毎年九⽉の例祭は盛⼤を極めている。(千葉県神社名鑑より) 境内⽯碑による誉⽥⼋幡神社の由緒 当社は、誉⽥別之命(第⼗五代応神天皇)を祭神とし、社伝に依れば、延宝年間、豊⾂⽅の武将市⾓頼⺟が、⼀族郎党と共に当地に移住する際、河内國古市郡誉⽥村(現⼤阪府⽻曳野市古市)に鎮座する誉⽥⼋幡宮の分霊を守護神として、奉斎したのがその始まりであり、当地が開拓されて来ました。(境内⽯碑より) 船橋市二宮神社 歴 史 古来からのまちの歴史や成り立ちをまとめておくとよいでしょう。資料にあたってみますと、例えば鉄道などのインフラがまちの成り立ちに関係していることが判明することもあります。図も使って、情報をわかりやすくまとめましょう。プロフィールシートの例例えば花など、まちのシンボルとなっているものに関する情報を記載しておきましょう。簡単な周辺地図を載せておくなどすると、まち全体の把握にも役立ちます。05Phase 1資料収集とプロフィールシートの作成周辺環境の把握まちの歴史や利便施設などを事前調査し、調査エリアと調査ルートを検討する

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